看却下|己を灯火として燃やす人間は、周囲を導く者となる。

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「看却下(かんきゃっか)」

これは、禅(ぜん)の言葉で「足元をよく見ろ」という意味です。

私は5年前、あることをキッカケにこの言葉の意味を知りました。

それから現在も、今もこの言葉を「人生の行き詰まった時」に思い出しています。

 

 

 

失恋、大切な人の〇、いじめ、努力、挑戦、失敗。

私たちの人生において「どうしようもなく高い壁が立ちはだかる瞬間」というものがある。

そのとき、依存先を見つけ、何かにしがみつくのか、自分の足で立ち、歩いていくのか。

どちらを取っても、辛く苦しい道が待っていると思う。

しかしどちらを取るかで、幸を見つけるのか否かは左右される。

そんな時、思い出して欲しい言葉が「看却下」。

この言葉は、それほど深く、壮大な可能性を秘めている。

これが、貴方の夜道を照らす、灯火の火種となりますように。

 

禅(ぜん)とは

禅(ぜん)とは、仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略称であり、同時に精神を統一し真理を追究する修行法である「禅定(ぜんじょう)」を指します。イメージとしては、人生の哲学(真理)を、教えとして宗教化したようなもの。※厳密な意味とは異なる場合もございます。

 

 

 

看却下(ストーリー)

ある夜の山道を、師が3人の弟子を連れて歩いていた。

当時は、今のように街灯がない時代で

空には月明かりもなく、風は冷たく、周囲にはただ闇が広がっていた。

そこに、唯一頼りにしていた灯火が

突如吹き荒れた風によって消されてしまったのだ。

闇は一瞬にして彼らを呑み込み、足元の石ころさえ見えなくなった。

弟子たちは立ち止まり、心細げに師の顔を伺った。

そのとき、師・法演(ほうえん)は静かに問いかける。

「さて、火は消えた
お前たちの心の悟りの境地を話せ」

つまり、お前たちの思うところを話せと問われたのだ。

一人の弟子が答える。

「彩りの鳳が、赤き空を舞い上がるが如し」

詩のようなその言葉は、美しくも現実から遠かった。

次の弟子が言う。

「鉄の蛇が古き道を塞いでいるようです」

鋭い比喩だが、なお暗闇を払うには至らない。

最後に、若き圜悟克勤が前へ進み出た。

彼は一息つき、闇の中で師に向かって言った。

「看脚下(かんきゃっか)――足元を見よ」

その声は、闇を裂くように凛としていた。

彼の言葉に他の弟子たちはハッとした。

詩でも寓話でもなく、ただ現実を直視する呼びかけだったからだ。

法演は目を細め、闇の中で微かに笑った。

「これこそ、宗を滅ぼすほどの一句だ」

彼らは互いに顔を見合わせ、そしてそっと足元へ視線を落とした。

そこには、暗闇に沈みながらも確かに続く道があった。

 

 

 

人生の看却下

我々の多くは、意識的であれ無意識的であれ、

人生における「灯火」を持っていると思う。

それは、両親かもしれないし、育ての親かもしれないし、この弟子達のような、師に近い存在なのかもしれない。

多くの人はきっと、それらを「灯火」としながら、日々を選択し生きていると思う。

しかし、もしもそれらを失ったら、貴方ならどうする?

仏教では、各々に師がおり、等しく教えを学び、いつ何時、常日頃からそれを意識せよと教わる。

この話は、その教えを深く理解しているか、人生に反映した思考を巡らせられているのか?を問われたものだった。

だから圜悟克勤は、そう仕向けた師の言動を強く感じ取り、「看却下(足元をよく見て歩きます)」と答えたのだ。

仏教では、人生を夜道に例えられる。

人生という真っ暗な夜道に、困難という夜風が吹き、

大事にしていた、頼りにしていた、導いてくれるものを失った。

そのとき、「お前はどうするのか?」

圜悟克勤は、それを強く感じ取ったわけだ。

 

 

法灯明(ほうとうみょう)

仏教の教えの1つに「法灯明(その教えを大切にしなさい)」という教えがある。

これは、人生の指針となる存在、私たちで言う両親や、その教えを大切にしなさいということ。

 

自灯明(じとうみょう)

それと同時に「自灯明(己を拠り所としなさい)」という教えがある。

これは、自分の信じる道や学びを大切にし、それらを大事にしながら自ら足元を照らしなさいという教えのことだ。

 

 

私たちの人生において、常に困難が降りかかってくる。

そんなとき、拠り所となるのは法灯明(誰かの教え)かもしれない。

しかし、それは間違っていることも、自分の人生では意味をなさないことも、与えてくれてた存在を失うこともある。

そうなれば我々の多くは、新たな灯火となるものを探すか、また火を灯そうとするのかもしれない。

だが、それも長くは続かない。

仏教の教えでは、なぜ2つの矛盾した教えが存在するのか。

それは、法灯明は持ち続けても良い、ただ自灯明を疎かにしてはいけないからだ。

外側にあるものだけに頼って生きるのは難しく、人生という困難には対応できない。

そのとき、ただそこに立ち尽くすのか、光を探してしがみ付くのか、

自らを灯火とするのか、それが問われる時が来る。

私も含め、多くの人々は何かに頼り、縋りたくなると思う。

ただし、それは一過性であり、同じことを繰り返す。

一時的なものであり、根本的な解決には至らない。

だからこそ、自ら歩ける者だけが困難を生き抜き、人生の頂を得ることができる。

そして、それを成し遂げた者のみが、灯火として誰かを導けるのではないだろうか。

 

 

さて、私から貴方にもう一度問う
行き詰まった時、思い出す言葉は?

 

 

〇〇〇