人は誰しも、人間関係の中で思い通りにいかない瞬間や、どうしても埋まらない距離を感じる瞬間を経験する。
友人や家族、恋人、職場の仲間、どんなに大切な相手であっても、衝突やすれ違いは避けられない。
そんなとき、私たちが直面するのは「孤独」である。
それを恐れて避けようとするのか、それとも選び取り、向き合うのか。
その選択によって、心の在り方や生き方は大きく変わっていく。
この記事では、私の体験というか、教訓として生まれた一つの言葉(タイトル)を軸に、孤独を避けることと選ぶこと、その違いから見えてくるものを述べていこうと思う。
孤独を「”避けるか、選ぶか”」そこから見えるもの
「孤独から逃げ続けた者は、依存先を見つけ
孤独を選び戦い続けた者は、頂きを見つける。」
これは、私が人間関係に行き詰まり、思考を巡らせて打開したすえに辿り着いた一つの結論である。
最初にこの言葉を思いついたとき、少しカッコつけたい気持ちや、自分を正当化したかった衝動に狩られたのを覚えている。
普遍的な真理のように語りたい、名言めいた響きを持たせたい。そんな欲が面白いほどに湧いてきた。
しかし同時に、それは私自身がこれまで抱えてきた人間関係の葛藤や失敗を反映したものでもあったと気づく瞬間でもあった。
大切な人とすれ違い、思いをうまく伝えられずに関係が壊れてしまったこともあれば、自分の未熟さや不器用さを突きつけられた瞬間もあった。
時にはそれを、相手の弱さを理由に上手くいかなかったと、自分を正当化したい気持ちがあったりしたものだ。
もちろん、その意見も一理あるし、正直なところ事実でもあると思っている。
しかし、そんなところに目を向けている時間なんて無駄で「自分には何ができたか?」ということが重要である。
そのとき私は、再度孤独と向き合わざるを得ず、そして心の中に残ったのは「自分が何を選ぶか」という問いだったわけだ。
ただ孤独を避け続けることで安心感を得られる場面もあったのだが、その一方で、それは相手や環境に過度に依存する結果を招くこともある。
自分の足で立つよりも、誰かに支えてもらうことを望む弱さが顔を出し、必死にそうならないよう葛藤したことは幾度もある。
けれど、逃げるのではなく「孤独を選び取る」と決めてからは、その孤独が私を鍛え、前へ進ませてくれる力に変わっていった。
私は、他者が私以上に魅力的でありながらも良くない関係に進む姿を見てきた。
その光景は苦しくもあったが、同時に「孤独を選ぶこと」の意味をより深く理解させてくれたと思う。
なぜなら、その人はいまも依存先を探し続け、時には一喜一憂しながら「それが人生だ」と思っているように見えるからだ。
その人の人生において、勘違いしながらそれを突き進んでいくのか、いつか本質に気づき幸せを得るのかはわからない。
だが結果的に、この言葉は私の体験そのものに裏打ちされた、実感を伴う表現へと育っていった。
正当化の下心と、それでも残る実感
人間関係で上手くいかなかった時、もちろん私は「自分を少しでも正当化したい」という下心が生まれる。
相手の弱さや選択が原因で関係が崩れた、そう言い切ってしまえば楽になるからだ。
しかし、その「楽さ」に甘えるということは、自分自身の成長を止めてしまう危険性をはらんでいるとも感じていた。
だからこそ、言葉にした後で何度も反芻し、自分の立場を振り返る作業を繰り返すことにした。
そして同時に「自分には何ができたのか?」と問い直せば、改善できた点は必ず出てくる。
言葉の選び方、相手に寄り添う姿勢、タイミングの見極め、すべきアプローチ、サボっていた自分。
そうした細かな点を掘り下げれば、いくつも反省点が浮かび上がってくるわけで、そこを無視して、全てを相手の責任に委ねることは間違っていることに気づく。
むしろ、自分にできることを冷静に認めるからこそ、相手の弱さや選択をより正しく理解できるのだと思う。
そして、その過程で少しずつ見えてきたのは「正当化」と「自己理解」は表裏一体であり、弱さを認めつつも前に進む力へと変えられる、という実感だった。
そう思ったからこそ、ただの自己弁護ではなく、人に伝えられる言葉へと形(コンテンツ)を整えたのだと思う。
つまりこの言葉は、私の弱さや逃げたい気持ちを含みながらも、それでもなお残った“実感”の結晶。
その結晶は決して完璧ではなく、不純物を含んでいるかもしれないが、その曇りこそが人の心に響くのではないか、今ではそう感じている。
孤独を選ぶ強さとは
孤独を避ければ、人は誰かや何かに依存するようになる。
安心や安定を得られる一方で、そこには他者に左右される脆さが残るからだ。
依存は一時的には心を満たしてくれるかもしれないが、それは自分の基盤を相手に委ねているという不安定さを常に孕んでいる。
誰かがいなくなった途端に崩れてしまう関係性、環境が変わったときに自分を保てなくなる危うさ。
そうしたものは、目を背けても確実に存在している。
逆に、孤独を選び、自ら戦い続けることは苦しい道。
時に心細く、誰にも理解されない感覚に苛まれることも多い。
しかし、その先にあるのは「孤高」という誰にも侵されない境地。
それは一人で立ち続ける力から生まれる確かな自信であり、他者の言動に左右されない静かな強さでもある。
孤高は特別な強者だけが持つものではなく、日常の小さな選択から逃げずに考えること、目を逸らさずに受け止めること、自分の足で一歩進むこと、そうした積み重ねで築かれていくものだと私は考えている。
そしてその過程で得られるのは、孤独の中でしか培われない自分自身との対話であり、それこそが人生を支える土台になっていくのだと思う。
体験から普遍へ
これは、はじめは“指針”として響かせたかった言葉だが、今は“体験の共有”として伝えたい気持ちが強い。
なぜなら、人は理想的な真理よりも、誰かが葛藤のすえに紡いだ言葉にこそ共感できるからだ。
抽象的な理念だけでは心に届かないことが多く、むしろ失敗や迷い、弱さを含んだ物語にこそ人は自分を重ねるのだと思う。
私もまた、自分の弱さをそのまま認め、それを言葉に残すことでしか、本当の意味で誰かに寄り添うことはできないのではないかと感じている。
私にとってこの言葉は、完全な誇りではない。
むしろ、誇れない部分を含んだ「正直な吐露」。
自分の心の揺らぎや、未熟さを隠すことなくさらけ出した言葉だからこそ、どこか頼りない印象を与えるかもしれない。
しかし、その不完全さがあるからこそ、同じように孤独に向き合う誰かの心に届くのではないかと思っている。
完璧な言葉ではなく、途中経過のような未完成の響きが、読む人に「自分もそうでいいのだ」と安心感を与えるのではないだろうか。
私は、そうした“未完成の強さ”にこそ意味があると信じている。