他人の人生に夢中になり、自らの人生を見失う現代の人々。

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街を歩いていると、ふと不思議に思うことがある。

人は、どうしてそこまで他人のことが気になるのだろうか。

すれ違う人に目を向ける。服装や容姿を眺める。誰かが何かをしていれば、通り過ぎるまで観察する。

家に帰れば、今度は画面越しに他人の生活を見ている。

誰が結婚した、どこへ旅行した、何を買った、どんな仕事をしている。

そうした情報に触れて、羨ましくなったり、安心したり、時には腹を立てたりする。

私たちは一日のうちに、いったいどれだけ他人の人生について考えているのだろう。

もちろん、周囲にいる人を認識するのは普通のことだし、他人への関心があるからこそ成り立つ関係もある。

私が疑問に感じるのは、その先だ。

自分に直接関係のない相手をいつまでも気にして、その人の状況によって自分の感情まで変えてしまうことだ。

以前、ある出来事を目の当たりにしてから、この疑問が私の中でより大きくなった。

そこで見たのは、単に人が好奇心を持つというだけでは説明できない光景だ。

他人のことを見ているその時間に、私たちは自分自身の人生をどれだけ見て、どれだけ生きているのだろうか。

 

Contents

人は、どれだけ他人のことが気になるのか

すれ違う人を、そこまで見る必要があるのか

買い物へ行くと、周囲にはいくらでも人がいる。歩いている人、立ち止まって話している人、店を眺めている人、子供を連れている人。

そこに誰かがいることに気づき、進路を確かめてすれ違う。それだけなら、何も不思議ではない。

ただ、ときどき相手を認識した後も、ずっと視線を向けている人を見かける。横を通り過ぎるまで、ずーっと顔を向けている。こちらが何か特別なことをしているわけでもないのに、視線だけが残る。

私は普段、相手がいるとわかれば、それ以上じっと見る必要をあまり感じない。自分の感覚では、数秒も見れば人がいることはわかる。三秒程度というのは、私が普段の生活を思い返したときに浮かぶ目安であって、何秒からが異常だという基準ではない。混雑した場所や危険のある場所なら、確認に必要な時間も変わる。

それでも、特に理由もなく見続けているなら、いったい何がそんなに気になるのだろう。

例えば、前から歩いてくる人の服装が気になる。隣を歩く恋人同士を眺める。少し変わった行動をしている人がいれば、通り過ぎるまで目で追う。

そこには、その場で何かを判断したい気持ちや、知りたいという気持ちがあるのだろう。しかし、相手がどんな服を着ていても、誰と歩いていても、多くの場合、自分がこれからすることには何の関係もない。

問題は視線を向けたことではなく、見なくてもよい相手を見続けることが、ごく当たり前になっている点にある。相手の姿が視界から消えれば、その人についての関心もほとんど消える。

それほど一時的で、自分の人生には何も残らない。それなのに、次の誰かが目に入れば、また同じことを繰り返す。

他人が目に入ることと、他人を見ようとすることは、似ているようで違う。

私はその違いを、もっと意識してもよいのではないかと感じている。

その視線は、何を確かめようとしているのか

では、私たちは他人を見るとき、何を考えているのだろう。

私がまず思い浮かべるのは、比較である。同じ性別の人を見て、顔や体格、服装、雰囲気を比べる。それだけなら、生物として本能的に他者との優位差を測る行為で、さほど不思議ではない。

しかしそれ以上に、自分より格好いいか、魅力的か、余裕がありそうか。異性であれば、相手に魅力を感じるかどうかという関心もあるだろう。もっと単純に、何をしているのか知りたいという好奇心もある。

ただ、その比較は見た目の違いだけでは終わらない。この人は楽しそうだ、この人はお金を持っていそうだ、あの二人は仲がよさそうだ。ほんの数秒見ただけの人に対して、勝手に生活を想像し、そこに自分を重ねてしまう。

実際には相手の名前も知らないし、何を考えているのかもわからない。それなのに、目に見えたわずかな情報から、相手の生活が自分より上か下かを推し量ろうとする。

考えてみれば、ずいぶん不確かな比較である。高そうな服を着ているからといって豊かとは限らないし、楽しそうに笑っているからといって悩みがないわけでもない。

それでも人は、見えるものから判断したくなる。相手の事情を知るためではなく、自分がどう感じるかを確かめるために見ていることさえあるのではないか。

例えば、誰かを見て「自分の方がまだましだ」と感じた瞬間、少し安心する。反対に、自分より恵まれているように見える人に出会うと、理由もなく落ち着かなくなる。こうした反応は必ずしも言葉にならない。「負けた」「勝った」と頭の中で考えていなくても、その瞬間の気分には表れる。

だから私は、他人に長く視線を向ける人を見ると、その人は何を気にしているのだろうと考えるようになった。視線だけで相手の本心を見抜けるわけではないが、私が思うのは、自分が誰かを眺めているとき、実際には何を確かめようとしているのかという問いである。

それを考えると、他人を見るというごく小さな行動の中にも、自分の価値を他人との比較で判断しようとする姿勢があると思う。

 

他人の不幸は、見世物ではない

ある光景を見て、どうしても腹が立った

以前、偶然ある深刻な出来事の現場に居合わせたことがある。事情があって私はその場を離れられず、少し距離を取った場所で用事が終わるのを待つしかなかった。

現場では専門の人たちが対応していて、当事者の家族もそこにいた。大切な人が深刻な状況に置かれているのだから、家族が抱えていた不安や恐怖は相当なものだったはずだ。

私には、その心境のすべてを理解することなどできない。それでも、目の前の状況がどれほど辛いものであるかは想像できた。

そんな中、通りかかった人たちが次々と足を止め始めた。自分たちの用事を中断して、その場に留まり、出来事の推移を眺めている。中には、撮影している人もいた。

私が目にしていたのは、そういう光景だった。

正直に言えば、私はかなり腹が立った。

なぜ、そこまでして見たいのか。自分には直接関係のない人が深刻な状況に置かれているのを、なぜわざわざ立ち止まって眺め続けるのか。その時間で何を得たいのか。何より、今まさに不安の中にいる家族が、周囲から視線を向けられ続けることを、どう感じるのか。

私は離れられない事情があったが、そうでなければそのまま通り過ぎていた。そこで何かできるわけでもないのに、留まる理由が私にはないからだ。

周囲の人たちが何を考えていたかはわからない。危険がないか確認していた人もいた可能性もあるし、手伝えることを探していた人もいた可能性もある。ただ、私が感じた怒りは、そうした可能性を考えただけで消えるようなものではなかった。

その場で自分の関心を満たすことが、当事者の気持ちより優先されているように見えた。

そのことが、どうしても気に食わなかった。

興味本位で、ただ眺めている

何か異変が起きていれば、一度立ち止まって状況を確かめることはある。誰かが助けを必要としているなら、周囲の人が動くべき場面だってある。しかし、確認した後もその場所に居続けることには、また別の理由が必要だ。

すでに専門の人たちが対応していて、職種も、人数も足りている。

自分にはできることが見当たらない。そこに留まることで誰かの役に立つわけでもない。それでも足を止めて、目の前の出来事がどうなるのかを追い続ける。

その行動は、何のためなのだろう。

珍しい出来事だから見たい。結末が気になる。帰ってから誰かに話すことがあるかもしれない。そうした動機が混ざっていたとしても不思議ではない。現場にいた人の心の中を確認できたわけではないが、少なくとも私には、その場所に留まる必要が見えなかった。

そして、出来事が一つの節目を迎えると、周囲に集まっていた人たちは、一人残らず去っていった。

その前後の光景を見て、私の疑問はさらに強くなった。

留まっていた人にとって重要だったのは、目の前に現れた突発的なイベントを、その場で消費することだけだったのだろうと。

仮に専門的な技能があり、必要なときに協力できる人だったとしても、当事者から距離を取ることはできる。

状況に応じて助けを申し出ることと、家族から見える場所で眺め続けることは同じではない。

人が困っている場所では、自分の好奇心より先に考えることがある。そこにいる必要はあるのか。自分の存在が邪魔になっていないか。見られる側に余計な負担を与えていないか。何もしないなら、そこから離れることも一つの優しさであり、配慮だ。

私は、近年の日本人に対して、こうした思想や考え、倫理観の欠如がかなり強まっていると感じる。

見られている人の気持ちは、どこへいったのか

もし、自分の大切な人が深刻な状況に置かれていたらどうだろう。何が起きるのかわからず、ただ無事を願って待っている。そのすぐ近くで、知らない人たちが何人もこちらを見ている。

家族の表情を見て、当事者の様子を見て、何が起こったのか話している。見られる側には、その人たちが誰で、何のためにそこにいるのかもわからない。ただ、多くの視線を受けながら不安な時間を過ごすことになる。

私は、その場で何よりもこのことが気になった。

他人の不幸が気になるという感情と、その人の不幸を思いやるという行動は、まったく違う。心配だと言いながらずっと見ている人もいるだろう。しかし、心配している気持ちが本物だったとして、その視線が相手の負担にならないとは限らない。

相手の立場に立つとは、頭の中で「かわいそうだ」と考えることだけではない。自分がその場所にいたら何を望むのか、逆に何をされたくないのかを考え、必要なら行動を変えることだ。助けられるなら助ける。必要なければ離れる。事情を詮索しない。相手が落ち着くまで、余計な刺激を与えない。

関心を持つことは簡単だ。視線を向ければいいし、何があったのか知ろうとすればいい。しかし、配慮には自分の欲求を止める判断がいる。知りたいと思っても、知らないままでいる。見たいと思っても、見ないことを選ぶ。そこに違いがある。

あの日、私が腹を立てたのは、人が周囲に注意を向けたという事実ではない。自分の興味が満たされるかどうかばかりが前に出て、見られている人の気持ちが置き去りになっていたからだ。

そして、あの光景をきっかけに私は考えるようになった。人は自分とは関係のない他人の出来事を、どうしてそこまで気にし続けるのか。深刻な出来事でさえそうなのだから、日常生活では、もっと気軽に他人を眺めているのではないか。

 

人と比べて、一喜一憂する毎日

自分の方が上だと思えれば、それで満足なのか

他人との比較は、必ずしも競争の形を取らない。仕事で同僚に勝とうとしているわけでも、誰かと容姿を競い合っているわけでもない。ただ、目の前に人がいると、何となく自分との違いを考えてしまう。

例えば、同年代の人の仕事を聞いたとき、無意識に自分の立場と照らし合わせることがある。友人の暮らしを知れば、住んでいる場所や収入、恋人の有無から誰であるかまで気になる。相手が自分より恵まれていると感じれば焦り、自分の方が恵まれていると感じれば安心する。

では、その安心はどこから来ているのだろう。

自分が昨日まで抱えていた問題は、何も変わっていない。仕事の悩みが解決したわけでもなければ、生活に必要なお金が増えたわけでもない。人間関係が改善したわけでもない。それでも、自分より不遇に見える人を知っただけで、少し気持ちが軽くなることがある。

つまり、現実がよくなったから安心しているのではない。比べる相手を変えたことで、自分の現実が良いように見えただけなのだ。

ここには大きな違いがある。現実の問題が一つ解決したときに感じる安心には、それを支える理由がある。しかし、他人の状況を見て得られた優越感には、自分の側で新しく積み上げたものがない。相手がどう見えるかによって、その場の気分が変わっただけである。

例えば、勉強ができないことに悩んでいる人が、自分より成績の悪い人を見つけて安心したとしても、理解していなかった問題が解けるようにはならない。仕事で能力不足を感じている人が、誰かの失敗を見て喜んだところで、明日の仕事がうまくできるようになるわけでもない。

それでも比較は手軽だ。何かを変える努力も、時間をかけて考える必要もない。目の前の人から、自分が優位に立てそうな部分を探すだけでいい。その手軽さこそが、比較をやめにくくしている理由の一つなのではないか。

だがしかし、自分より下だと思える人を見つけ続けなければ保てない安心を、本当に安心と呼べるのだろうか。

自分の状態に自信があるのではなく、誰かより上にいると感じられる間だけ落ち着ける。その状態は、見た目以上に不安定ではないのだろうか。

その小さな快感を、何度も求めてしまう

他人を比較して得られる安心は、長続きしない。少し気分がよくなっても、次の瞬間には別の人が目に入る。今度は自分の方が劣っていると感じるかもしれない。ある部分では優れていると思えても、別の部分では負けていると感じることがある。

それなら比較をやめればよさそうなものだが、人はそう簡単にはやめない。私が考える理由の一つは、比較がときどき小さな快感を与えてくれるからだ。

何人もの人を見て、必ず満足するわけではない。それでも次に見る人なら、自分の方が上だと感じられるかもしれない。次の投稿なら、少し安心できるかもしれない。こうして他人を見る行動と、気分のよい瞬間が結びつくと、また同じことを繰り返したくなるのではないか。

この感覚を考えたとき、私はパチンコのように結果が毎回同じではないものを連想した。この比較をする心理と、ギャンブルの依存という仕組みは似ている。ここで共通していると感じるのは、期待した結果が得られなくても、次には得られるかもしれないという「不確実性」である。

そして、比較する材料はなくならない。街へ出れば知らない人がいる。職場へ行けば同僚がいる。スマートフォンを開けば、見知らぬ誰かの生活まで際限なく流れてくる。一人を見終わっても、次の一人がすぐに現れる。

さらに厄介なのは、人が自分に都合のよい部分だけを比較できることだ。収入では勝てなくても、容姿では勝っていると思いたい。容姿で負けたと感じても、人間関係なら自分の方がよいと考える。比較する基準を次々に変えれば、自分が安心できる材料を探し続けられる。

しかし、そうして得た満足は、結局その場限りである。また別の誰かが現れれば、安心を確かめ直さなければならない。その繰り返しの中で、他人は一人の人間としてではなく、自分の気分を上下させる材料になっていく。

私は、ここに他人を気にしすぎることの怖さがあると感じる。自分ではただ人を眺めているつもりでも、いつの間にか自分の気持ちを維持するために他人を必要とするようになる。そして、その状態が当たり前になれば、誰にも会わず、誰とも比較していない時間にさえ、自分の価値をどう確かめればよいのかわからなくなる。

他人が幸せになっても、あなたは何も失っていない

身近な人から結婚の報告を聞く。友人が仕事で成功する。知人が楽しそうに旅行している様子を見かける。それ自体は相手の人生に起きた出来事でしかない。

ところが、同じ報告を聞いて素直に喜べる日もあれば、何となく面白くない日もある。お祝いの言葉を返しながら、心の中では焦りや嫉妬を感じている。相手のことが嫌いになったわけではないのに、その人の近況を知ること自体が負担になる。

ここで考えたいのは、相手が幸せになったことで、自分は何かを失ったのかということだ。

友人が結婚しても、自分に恋人ができないことが確定するわけではない。誰かが昇進しても、直接競い合う立場でもない限り、自分の能力が下がるわけではない。相手が旅行を楽しんだからといって、自分が過去に楽しんだ時間がなくなるわけでもない。

それなのに苦しくなるのは、相手の充実した生活を見て、自分の現実との差を意識してしまうからではないか。自分の人生に満足できていないとき、他人の幸福は、その満足できていない部分をより鮮明に見せる。相手が何かを奪ったのではなく、以前から自分の中にあった不満が表に出てきたのである。

例えば、今の暮らしを自分なりに楽しめているなら、誰かが遠くへ旅行したという投稿を見ても、楽しそうだなと思って終わることができる。ところが、自分の生活をつまらないと感じていると、同じ写真が「自分にはこんな時間がない」という確認になってしまう。

写真は変わっていない。変わったのは、それを見る自分の側の状況と判断である。

私が特に疑問に感じるのは、この苦しさが相手への不満にすり替わってしまうことだ。自慢しているように見える、見せびらかしているように感じる、あの人は恵まれているからいい。そうやって相手について考え始めると、最初に自分が抱えていた不満が見えにくくなる。

他人の幸福が苦しいのであれば、その苦しさが何を示しているのか考えた方がいい。自分は何が欲しいのか。今の生活のどこに納得できていないのか。そもそも、何をもって自分の人生を幸福だと判断しているのか。

幸福についてはそれだけで長く考えるべき問題がある。ただ、少なくとも一つ言えるのは、他人が幸福になることと、自分が不幸になることは同じではないということだ。そこを混同してしまう限り、世界のどこかで誰かが幸せになるたびに、自分の心が揺れることになる。

 

自分の価値まで、他人に決めさせていないか

SNSで他人の人生を追い続ける

今は、わざわざ外へ出なくても他人の生活を見ることができる。朝起きてスマートフォンを開けば、誰かの食事や買い物、恋人との時間、仕事の成果などが目に入る。少し見て閉じるつもりが、次の投稿、次の動画、次の近況と進んでしまう。

SNSを使う目的はいろいろある。しかし、誰かの日常を追いかけているとき、そこに映っているのは他人の人生である。街で知らない人を眺めるのと、画面越しに誰かの生活を眺めるのとでは、距離や手段こそ違っても、他人へ意識を向けているという点は変わらない。

例えば、ある友人が旅行の写真を載せる。以前は何も感じずに見ていたのに、自分の生活に余裕がなくなると、写真を開くことすら嫌になる。反対に、自分と似たような生活をしている友人の投稿なら、安心して見ることができる。私は、年齢や経験を重ねていく中で、こうした違いが大きくなる人もいるのではないかと感じている。

若い頃には、自分もいつか同じような生活ができると考えられた。ところが、時間が経つにつれて理想と現実の差を強く意識するようになり、誰かの充実した近況が自分への問いに変わってしまう。そうなると、相手の投稿を見たくない理由は、単なる飽きではなくなる。

「なぜあの人は楽しそうなのに、自分はそうではないのか」。

その問いを真正面から受け取るのがつらいから、画面を閉じる。もちろん、SNSをやめる人がみな比較に苦しんでいるという話ではない。問題は、見た後に自分がどんな感情を抱いているかである。

そして、ここで一つ区別したいことがある。映画を見て物語を楽しむことや、ゲームに熱中することまで、他人の人生を眺める行為と同じにする必要はない。映画の登場人物に感情移入し、その物語を楽しむために時間を使う。ゲームの世界で遊び、達成感を得る。それは、自分が楽しみたいものを選んで過ごす時間である。

SNSでも作品や知識を楽しむことはできる。ただ、特定の人の暮らしを追って、誰が自分より恵まれているかを確かめているなら、そこで消費しているのは作品というより他人の生活だ。自分は何を楽しんだのかと聞かれても、残るのは羨ましさや優越感だけということになりかねない。

自分が何をしたかより、他人にどう見られるか

人は自分自身の行動よりも、他人からの評価を優先してしまうことがある。何をしたいかではなく、どうすれば立派に見えるか。何が正しいかではなく、どちらを選べば批判されないか。そうした基準が、日常の判断に入り込んでいる。

例えば、仕事の話し合いで何人かが意見を出しているとする。話が進むにつれて、あまりよくない方向へ向かっていると感じる。しかし、上の立場にいる人がその案を支持している。周りもはっきり反対しない。そこで自分も当たり障りのない意見だけを述べ、結局その案が通ってしまう。

後から「あれはよくなかった」と話すことは簡単だ。だが、問題が見えていたその場で、なぜ必要なことを言わなかったのか。理由をたどると、反対したことで自分がどう見られるかを気にしていた、という場合がある。

人間関係を壊さないために言葉を選ぶことと、自分が嫌われないために問題を見過ごすことは違う。前者は伝え方の問題だが、後者は判断する基準そのものが変わっている。本来は仕事をよくするための話し合いなのに、いつの間にか自分の立場を守るための時間になっている。

こうした価値観には、育ってきた環境や周囲から受けてきた影響もあるだろう。「いい学校へ行き、いい会社に入れば安心だ」と言われて育ち、自分もそうするべきだと考える。年上の人や立場の強い人の言葉には従うものだと教えられ、疑問があっても飲み込んでしまう。

私は、世代をまたいで受け継がれるそうした価値観も、今の社会で他人の評価が重くなっている一因ではないかと考えている。ただ、それを特定の時代や世代のせいだといいたい訳ではない。大切なのは、受け取った価値観を自分で確かめず、そのまま判断の基準にしていないかということだ。

自分の意見を持っているつもりでも、よく考えれば「こう思われたい」「こう言えば間違いない」が中心になっている。評価を求めて行動を選び続けると、何かを達成しても、その成果が自分にとってどんな意味を持つのかわからなくなる。

他人から褒められることはあっても、自分が納得できるとは限らないからだ。

住む場所も仕事も人間関係も、評価のためなのか

どこに住んでいるか。どんな家に住んでいるか。どんな会社で働いているか。収入はいくらあるのか。どんな恋人や友人がいるのか。

これらは生活を考えるうえで大切な条件である。ただし気になるのは、そうした条件がいつの間にか「その人自身の価値」を測るものになっていることだ。

例えば、有名な会社に勤めている人を聞くと、それだけで仕事ができる人だと考える。立派な家に住んでいると聞けば、人生に成功しているように感じる。交友関係が広ければ、人間として魅力があるように見える。だが、それらの情報だけで、その人がどんな人間なのかをどこまで理解できるのだろう。

職場で困っている人に手を貸せるか。間違えたときに自分の非を認められるか。誰も見ていない場所でも、他人を雑に扱わないか。信頼している相手に対して、必要なときには耳の痛いことも伝えられるか。そうした行動は、住まいや肩書きほど簡単には比較できない。

しかも、他人を見るときだけではなく、自分自身を評価するときにも、外側の条件を使ってしまう。どこに住んでいるから自分には価値がある。どんな会社に所属しているから認められる。どんな人と付き合っているから、他人よりよい生活を送っている。

では、それらを取り払ったとき、あなたには何が残るのだろう。

私は、立派な仕事や豊かな生活を否定したいわけではない。自分にとって必要なら、そこを目指せばいい。しかし、それを目指す理由が他人からどう見られるかだけになっているなら、手に入れた後も評価から逃れられない。今度はもっと広い家、もっとよい仕事、もっと魅力的に見える人間関係が気になり始める。

それに、見栄えのよい条件を手に入れることと、実際に中身のある人間になることは別だ。人を笑わせるのが上手く、周囲にはいつも誰かがいる。それでも、他人の立場を考えず、自分の間違いにも向き合わないのなら、私にはどこか空虚に見える。

周囲から評価されるものを持っているのに、自分という人間については十分に考えていない。その状態で、さらに他人の持ち物や暮らしを羨んでいるとしたら、何を手に入れれば満足するのだろう。

他人がどうなのかを語る前に、あなた自身はどうなのか。その問いに、家や仕事や人間関係の肩書きを並べるだけではなく、自分の日々の行動で答えられるだろうか。

 

他人を見る前に、自分を見ろ

他人の失敗には、いくらでも口を出せる

ニュースを見れば、誰かが何かを間違えたという話が流れてくる。そこで人は、「普通そんなことはしない」「なぜそんな判断をしたのか」「自分ならこうする」と意見を言う。SNSのコメント欄を開けば、見ず知らずの人の行動に対して、実に多くの言葉が並んでいる。

他人の問題は、外から眺めるとわかりやすい。結果がすでに出ているし、何が失敗だったのかも見えている。自分なら違う選択をしたと考えるのは簡単だ。その判断によって自分が責任を負うわけでもなければ、実際に同じ状況へ置かれて試されるわけでもない。

例えば、仕事で誰かが失敗すれば、その場にいなかった人でも意見を言える。「確認が足りなかった」「もっと早く報告すべきだった」。指摘そのものは正しいこともある。しかし、指摘する側が同じ状況に置かれたとき、同じだけの情報を持って、同じ時間の中で、同じ判断ができるかは別の問題である。

そして、他人の間違いを厳しく批判している人が、自分の日常では似たような失敗を繰り返していることもある。人の遅刻には腹を立てるのに、自分が遅れれば事情を説明する。人の言い訳には厳しいのに、自分の失敗では環境や相手の問題を持ち出す。

私は、他人の間違いを指摘すること自体を否定したいわけではない。必要な批判はあるし、見過ごしてはいけない問題もある。ただ、その指摘をした後、自分についてはどう扱っているのかということが気になる。

他人を批判している時間には、自分の欠点を見なくて済む。相手の間違いについて考え、言葉にしている間は、少なくとも自分が問われる側には立っていない。そこで正しいことを言えたとしても、その正しさが自分の行動に反映されていなければ、何が残るのだろう。

他人のことになると、いくらでも言葉が出てくる。それなら、その鋭さを自分に向けたとき、どれほどのことが言えるのか。私は、そこにその人の考え方が表れると感じている。

自分の間違いには、どれだけ向き合えているか

自分の失敗について考えるとき、人は急に事情を説明し始めることがある。「あのときは忙しかった」「相手の伝え方が悪かった」「仕方のない状況だった」。確かにそうした条件が影響している場合もある。しかし、それらを説明することと、自分に改善できる部分がなかったか考えることは、同時にできるはずだ。

ところが、都合の悪いことに直面すると、原因を考えるより先に自分を守ろうとする。責任を認めれば評価が下がる。無能だと思われる。部下や後輩から軽く見られるかもしれない。そうした不安があるからこそ、間違いを認められなくなることがあるのではないか。

特に立場が上がると、間違いを認めることを自分の威厳が失われることだと考える人もいる。例えば、上司の判断で仕事がうまく進まなかったとき、判断そのものを振り返らず、部下の報告や小さな手違いばかりを問題にする。そこに改善すべき点があったとしても、最初の判断が正しかったことにはならない。

自分が間違ったという事実を認めない限り、次に同じ状況が来ても、同じ判断を繰り返すことになる。周囲が何度注意しても、本人の中では問題が別の場所にあるのだから、変える理由が見つからない。

ここでも、他人からどう見られるかという問題が出てくる。正しくありたいのではなく、正しく見られたい。実際に改善することより、間違っていなかったと周囲に思わせることが優先される。だから、指摘を受けたときに必要なのは事実を確かめることなのに、最初に始まるのは自分を正当化する説明になる。

私は、人間が間違えること自体に特別な問題があるとは考えていない。自分も間違えるし、誰だって知らないことや未熟な部分はある。むしろ問題なのは、間違えた後に自分をどう扱うかだ。正しいことを口にする能力と、自分の誤りを受け止める能力は同じではない。

他人に厳しい人ほど、自分にも厳しくあれと単純に言いたいのでもない。他人に求めている基準を、自分が例外であるかのように扱っていないかという話だ。自分の問題にだけ特別な事情を付け加え続ければ、どれだけ立派な意見を言えても、自分については何もわからないままである。

見ないようにしても、自分の現実は変わらない

自分の問題を考えることには、面倒くささがある。自分の能力が足りていないと認めなければならないこともあれば、やるべきことを先延ばしにしていたと気づくこともある。変えたいと思いながら、実際には何もしていなかったという現実を見ることもある。

その点、他人の生活には入り込みやすい。誰かの成功を見て落ち込む。誰かの失敗を見て安心する。誰かの言動に腹を立てる。こうして感情を動かしている間は、自分の現実に答えを出さなくても時間が過ぎていく。

例えば、仕事を変えたいと何年も考えている人が、SNSで成功した知人を見て嫉妬する。相手の経歴を調べ、どうして成功できたのか考え、環境が恵まれていただけだと納得する。それで少し気持ちが落ち着いても、自分が仕事を変えるために何をするかという問題は何も変わらず残っている。

あるいは、人間関係に不満がある人が、知人の恋愛や交友関係を追いかけている。相手が楽しそうなら面白くないし、うまくいっていないと知れば安心する。しかし、自分が誰とどういう関係を築きたいのか、そのために自分がどう振る舞っているのかは、ほとんど考えていない。

もちろん、生活には自分の努力だけでは変えられないこともある。仕事や家族、経済的な事情など、自分一人ではどうにもならない条件は存在する。だからといって、他人を眺めることで、その条件が整理されるわけではない。変えられないことを見極めるためにも、まず自分の現実を正確に見なければならない。

SNSを閉じたり、比較する相手から距離を置いたりすることは、苦しい感情を減らす助けになる。しかし、見なくなったことで問題そのものが解決したと考えるなら、そこでまた一つ勘違いが起きる。見たくないものを見ないという選択と、自分の生活をどうするか決めることは違う。

他人の成功を知らなくても、自分の仕事への不満は残る。他人の幸福を見なくても、自分が何を幸福と感じるかという問題は残る。他人の失敗を批判しなくなっても、自分が間違えたときにどう向き合うかという問題は残る。

結局、自分の現実は自分のところにある。どれだけ他人の人生に意識を向けても、それだけでは手元にある現実は変わらない。

 

もっと自分の人生に集中しろ

目の前の時間に夢中なとき、他人は気にならない

私は、人が何かに夢中になっているときの様子を考えると、この問題の答えが少し見えてくるように感じる。

例えば、恋人同士が二人の時間を楽しんでいるところへ、誰かが話しかけたとする。返事はするものの、簡単な相づちだけだったり、聞かれたことと少しずれた答えが返ってきたりする。二人にとっては、今目の前にいる相手との時間の方が、ほかの話題よりもずっと大きいのだろう。

別に恋人同士である必要はない。友人と話が盛り上がっているとき、周囲で誰が何をしているかなどほとんど気にならない。仕事に集中しているときは、気づけばかなりの時間が経っている。映画を見ているときは、画面の中の物語以外のことを考える余裕がなくなる。ゲームや趣味に熱中しているときも同じである。

それらの時間には、一つの共通点がある。自分が今経験していることに、意識が向いているということだ。

街を歩いて音楽を聴いているときも、自分がその一曲を本当に楽しんでいるなら、ほかの人の服装や行動を次々と気にする必要は感じにくいだろう。一方、ただ何となく音楽を流しているだけなら、周囲の出来事に意識が移ることもある。どちらが正しいという話ではなく、今の自分が何に関心を向けているかによって、同じ時間の過ごし方でも中身が変わるということだ。

私はここに、自分の人生に集中するという言葉の本質があると考えている。何か大きな目標がある人だけが、自分の人生に集中しているわけではない。目の前の食事を楽しむことも、誰かとの会話に耳を傾けることも、好きな作品を存分に楽しむことも、その人自身が生きている時間である。

本当に楽しんでいるとき、人はわざわざ関係のない誰かを探して、比較する必要がない。目の前の時間そのものに、すでに関心を向ける理由があるからだ。

自分のために考えることも、やることも、いくらでもある

自分の人生に集中しろと言うと、毎日努力して、勉強して、仕事で成果を出し続けなければならないように聞こえるかもしれない。しかし、私が言いたいのはそういうことではない。

休みの日に映画を見るのもいい。ゲームをするのもいい。友人と遊びに行くのも、家族と食事をするのも、一人で何もせず休むのもいい。何かを生み出したり、能力を高めたりすることだけが、人生の充実ではないからだ。

自分が何を楽しみ、どんな時間を大切にしたいかは、人によって違う。仕事に夢中になれる人もいれば、家族との生活が一番大切な人もいる。休日の趣味を楽しむために働く人もいるだろう。それぞれの時間には、それぞれの意味がある。

ただ、どんな生き方を選ぶにしても、自分の人生について考えることは尽きない。今の仕事を続けたいのか。これからどこで暮らしたいのか。誰とどんな時間を過ごしたいのか。今の生活で何が不満なのか。逆に、今あるものの中で何を大切にしたいのか。

大切なのは、常に頭を動かしていろということではない。自分が今どう過ごしたいのかを、他人の評価とは別のところで考えられるかということだ。

自分の人生をよくしたいと考えるなら、やるべきことが見えてくる。恋人との関係を大切にしたいなら、相手との時間や自分の振る舞いを考える。仕事で今より力をつけたいなら、足りない知識や経験を探せる。生活を落ち着かせたいなら、無理のある習慣や出費を見直せる。何を目指すかによって、関心を向けるべきものは変わる。

一日を振り返ったとき、自分が楽しんだこと、考えたこと、選んだことがある。その積み重ねが、自分の人生を形づくっている。他人が何をしているかを知らなくても、そこにある時間の意味が減るわけではない。

他人の人生を眺めている間、あなたは何をしているのか

私が最初に目にした光景が、どうしてこれほど強く心に残ったのか。今振り返ると、当事者の気持ちを考えずに見物しているように見えたことへの怒りだけではなく、そこまでして他人の出来事を追いかけるという人間の行動そのものが、どうしても理解できなかったのだと思う。

その人達には、その日それぞれの生活があったはずだ。行く場所があり、一緒にいる人・これから会う人がいて、やろうとしていたことがあったのだろう。ところが、目の前で何かが起きるとそれまでの予定を中断して、知らない誰かの深刻な出来事を眺め続けていた。

そこで私は思った。もっと自分の人生に集中すればいいのではないか。

これは、誰かのことを心配するなという意味ではない。他人の幸福を喜ぶことや、困っている人に手を差し伸べることまで否定する話でもない。誰かの人生に関わることが、自分自身の人生の大切な一部になることもある。

私が疑問に感じるのは、関わる必要のない人の出来事を、ただ眺め、評価し、勝手に感情を動かすことに、それほどまでに時間を使っているという現実だ。

誰かの失敗が気になって、その原因を調べ、批判する。誰かの成功が気になって、自分と比較し、妬み嫉妬する。SNSで知人の生活を追いかけ、自分より幸せそうかどうかを確かめる。そんなことを何度も繰り返した一日の終わりに、いったい何が残っているのだろう。

相手について詳しくなったかもしれない。誰がどこへ行ったのか、誰が何を手に入れたのか、誰がどんな失敗をしたのかを知ったかもしれない。しかし、その知識が増えた一方で、自分が今日どう過ごしたいのか、自分は何に満足していて、何に不満を抱えているのかについては、ほとんど考えていなかったとしたらどうだろう。

他人の人生に意識を向けることは簡単だ。見えるものに反応し、思ったことを言えばいい。しかし、自分自身の生活を引き受けることには、選ぶことも、諦めることも、間違いを認めることも含まれる。そこには他人について語るだけでは済まない難しさがある。

それでも、自分の人生を生きるというのは、結局そういうことだと思う。自分の時間を何に使うのか。誰と過ごすのか。何を楽しむのか。何を変えるのか。何を変えられないと受け入れるのか。それを考え、選んでいくことは、他人には代わってもらえない。

街を歩くときも、誰かと過ごすときも、スマートフォンを開くときも、時間は同じように過ぎている。その時間に何へ意識を向けるかは、小さなことのようでいて、積み重なれば自分が毎日何を考え、何を経験して生きてきたかという違いになる。

私は、もっと自分の人生に夢中になってもいいと思っている。他人を見ている暇がないほど働けという話ではない。自分にとって大切な時間を、自分のために使えばいいということだ。恋人と笑い合う時間でも、友人と遊ぶ時間でも、一人で映画を見る時間でも構わない。自分自身の問題について考える時間だって、もちろんそうだ。

他人のことをそこまで気にして、あなたは何を得て、何が残るのか。

他人がどう生きているかを眺め続けているその間に、あなた自身は、自分の人生をどれだけ生きているのだろうか。

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